うみ

感情がぐわわんとなったとき

ファイルに残っていた文章

平成二十九年一月十七日火曜日


ついにすべての終わりがきたようだ。

pcはwifiが繋がらず、テレビは録画ができなくなった。pcでLINEもツイッターも出来なけりゃ、お相撲を録画して見ることができない。私はブコウスキーと一緒でこうやってパソコンに向かって何か文字をタイピングしていくことが好きなのに、その楽しみさえ奪われたような感じ。ブログを更新することもできない。
iPhone4sで文字を打つのは本当にしんどくてイライラするが、パソコンで文字を打っていると、文字を打つたびに言葉とともに想いが昇華されて行って脳が浄化する感じがある。これは手書きともまた違う。手書きだと責任がのしかかるから、安易なことを書いては消し書いては消しの繰り返しになってしまう。論作文の勉強をしてその添削をしてもらっているけど、本当は句読点の位置とか主語と述語の位置とかそんなことどうでもいいんだ、わたしは。そうやってやっていくうちに感性が死にそうで怖い。句読点の位置がどうだとて、他者への思いやりを持つ心を育てる具体的な方策とて、そんなことがほんとうに大切なことなのだろうか。
よくよくかんがえたら、私が好きなものなんて本当に単純なのかも。絵、写真、俳句、ブコウスキー、音楽、食べ物。そんなもんだけ。ありがたがっているけど、本当の本当はいらないもの、たくさんある。学校、論作文の添削、先生、授業、サークル。でもそれらをすべて否定してみたら何が残るだろう。何も残らないのが怖くて、全部肯定して受け入れてる。受け入れてる、ふり、をしてるだけ。

私がブコウスキーのことが好きなのはあの真実性だと思う。全部が全部本当。競馬が好きで酒が好きで女の人が好きで生きるのはつらい。本当にみんなが好きなものを好きじゃないって言った方がいいよな風潮があるよな世の中。

お酒が好き=アル中、セックスが好き=メンヘラ、競馬が好き=ろくでなし。


お互いを抑制しあって生きて、最終的にはそこになにかが残るんだろうか。ブコウスキーみたいに生きるのは、本当にむずかしいことだと思う。あれはブコウスキーが作家として成り立ってたからこそ、うまいこと生きてこれたわけで、会社員とかじゃ無理だろうな。表現者になれれば、いつかこの世界から抜け出すことができるんだろうか。見えない枠の中でぎゅうぎゅう詰めになって生きている、今のこの状態から。
力士は幸せだと思う。そういうことを考えずに日々稽古して女のコを漁って生きてるだけ。頭を使ってないとは言わないけど、日々流されて生きてるだけだからそういう苦しみから解き放たれてる。でも本当はそういう人生が一番みじめで一番かわいそうなんだ。何も考えず、お気楽においしいものを食べて日々を過ごすことは、死んでるのとおんなじ。死んでるくらいなら悩んでた方がまだちょっとだけまし。戦う必要もないのに、テレビでの見世物のために戦って、戦うためだけに稽古して、人からお金をもらって人の好意に甘えて生きていく。なんとかわいそうな人生だろうか。最終的には見世物だからかわいそうなのかもな。
だからみんな、本当は、力士がかわいそうだからみんな力士をありがたがるんじゃないの。現代に要るものではないけれど、伝統という名目で現代に残されてしまったものだから。だから、大義名分的に力やお金を持たせて古いものを着せて古い髪形をさせてるだけ。

つまりはすべてが噓の世界なんだよな。力士はバカだから、その歯車の中で何も考えず、のうのうと生きているけど。調子乗んなよ力士。私はお相撲が好きじゃないのか?いや好きだ。あの体。てか体が好きだ。
全部が全部うその世界なんだよな。もう嘘の世界に生きたくないな。てか嘘の世界に生きていたいことないけど。あああ全部やめて海のそばに行きたい。海が見えるところで音楽を聴いて絵を描く。これだけがほんとだ ほんとの世界だ。月が見えたら月の絵を描く。太陽が見えたら太陽の下を歩く。これだけ。本当に欲しいのはこれだけ。