うみ

感情がぐわわんとなったとき

泣きて〜〜

高校の時の友達と会った。

 

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高3のときに、みんなで廊下で花いちもんめをしたこと、階段でグリコをしたこと、クラスメイトに勝手なあだ名を付けていたこと、漫画を切り抜いてセリフをパロディにして教科書に友達が貼り付けてきたこと、休み時間に大富豪をやったこと、インディアンポーカーのルールを誰一人知らないのに無理矢理やろうとしてたこと、同じクラスにいるのに友達と毎日文通してたこと、体育の卓球を爆笑しながらやったこと

いろんな思い出を思い出しながら、話して、笑いすぎて、最高に悲しい。 

 

自分ならなんでもできるという自信に満ちあふれ、なんでもできたあの頃。

 

なんとか戻れないかなあ。

 

今の私は、彼氏に些末なLINEを送ってどうでもいい会話をして、職場に朝早くに行って子どもの面倒を見て、色々言ってくる子どものためにも授業をして知りもしないスポーツの顧問をやって、子どものためになるかもわからない授業や道徳をやってお金を稼いで、ぺこぺこしながら急いで帰って、お母さんは友達の弟はどこの大学に入ったのかを聞いてきて、友達に会えば強い口調で社会はゴミと言って愚痴って生きている

 

私の、発想力に溢れた、変幻自在で美しい、私のためだけの自由な日々よ、

恋しい。

ファイルに残っていた文章

平成二十九年一月十七日火曜日


ついにすべての終わりがきたようだ。

pcはwifiが繋がらず、テレビは録画ができなくなった。pcでLINEもツイッターも出来なけりゃ、お相撲を録画して見ることができない。私はブコウスキーと一緒でこうやってパソコンに向かって何か文字をタイピングしていくことが好きなのに、その楽しみさえ奪われたような感じ。ブログを更新することもできない。
iPhone4sで文字を打つのは本当にしんどくてイライラするが、パソコンで文字を打っていると、文字を打つたびに言葉とともに想いが昇華されて行って脳が浄化する感じがある。これは手書きともまた違う。手書きだと責任がのしかかるから、安易なことを書いては消し書いては消しの繰り返しになってしまう。論作文の勉強をしてその添削をしてもらっているけど、本当は句読点の位置とか主語と述語の位置とかそんなことどうでもいいんだ、わたしは。そうやってやっていくうちに感性が死にそうで怖い。句読点の位置がどうだとて、他者への思いやりを持つ心を育てる具体的な方策とて、そんなことがほんとうに大切なことなのだろうか。
よくよくかんがえたら、私が好きなものなんて本当に単純なのかも。絵、写真、俳句、ブコウスキー、音楽、食べ物。そんなもんだけ。ありがたがっているけど、本当の本当はいらないもの、たくさんある。学校、論作文の添削、先生、授業、サークル。でもそれらをすべて否定してみたら何が残るだろう。何も残らないのが怖くて、全部肯定して受け入れてる。受け入れてる、ふり、をしてるだけ。

私がブコウスキーのことが好きなのはあの真実性だと思う。全部が全部本当。競馬が好きで酒が好きで女の人が好きで生きるのはつらい。本当にみんなが好きなものを好きじゃないって言った方がいいよな風潮があるよな世の中。

お酒が好き=アル中、セックスが好き=メンヘラ、競馬が好き=ろくでなし。


お互いを抑制しあって生きて、最終的にはそこになにかが残るんだろうか。ブコウスキーみたいに生きるのは、本当にむずかしいことだと思う。あれはブコウスキーが作家として成り立ってたからこそ、うまいこと生きてこれたわけで、会社員とかじゃ無理だろうな。表現者になれれば、いつかこの世界から抜け出すことができるんだろうか。見えない枠の中でぎゅうぎゅう詰めになって生きている、今のこの状態から。
力士は幸せだと思う。そういうことを考えずに日々稽古して女のコを漁って生きてるだけ。頭を使ってないとは言わないけど、日々流されて生きてるだけだからそういう苦しみから解き放たれてる。でも本当はそういう人生が一番みじめで一番かわいそうなんだ。何も考えず、お気楽においしいものを食べて日々を過ごすことは、死んでるのとおんなじ。死んでるくらいなら悩んでた方がまだちょっとだけまし。戦う必要もないのに、テレビでの見世物のために戦って、戦うためだけに稽古して、人からお金をもらって人の好意に甘えて生きていく。なんとかわいそうな人生だろうか。最終的には見世物だからかわいそうなのかもな。
だからみんな、本当は、力士がかわいそうだからみんな力士をありがたがるんじゃないの。現代に要るものではないけれど、伝統という名目で現代に残されてしまったものだから。だから、大義名分的に力やお金を持たせて古いものを着せて古い髪形をさせてるだけ。

つまりはすべてが噓の世界なんだよな。力士はバカだから、その歯車の中で何も考えず、のうのうと生きているけど。調子乗んなよ力士。私はお相撲が好きじゃないのか?いや好きだ。あの体。てか体が好きだ。
全部が全部うその世界なんだよな。もう嘘の世界に生きたくないな。てか嘘の世界に生きていたいことないけど。あああ全部やめて海のそばに行きたい。海が見えるところで音楽を聴いて絵を描く。これだけがほんとだ ほんとの世界だ。月が見えたら月の絵を描く。太陽が見えたら太陽の下を歩く。これだけ。本当に欲しいのはこれだけ。

無駄なことが好きなわけねえだろ

このまえ後輩に、本当に○○さんは無駄なことが好きですね~!と言われたんだけど、

無駄なことが好きなわけねえだろ。殴るぞ。

 

最近容易に他人を定義付けしてくる人間がほんとうに多いので、びっくりしてしまう。

無駄なことが好き以外で、ここ最近された定義付けは「素直だから人の言うことを何でも聞く」「珍しいものが好き」「変なところにこだわりがある」とかです。

いや、わかる。

もしかしたら定義づけをきっかけに私を理解しようとしてくれているのかもしれないし、話題提供のつもりかもしれない。

 

だとしてもやめろ。やめろぶん殴るぞ。

 

プラスのことでもマイナスのことでも合っていても合っていなくても、

他人から「あなたはこういう人間です」って烙印を押されるのが本当に嫌だ。

私が敏感すぎる感じもするけど、私はできるだけ自分の思想とかをぎっちり決めたくなくて、あえてフワフワさせているのに、そういうことを横からガッと押し付けてくるやつが苦手でたまらない。

「この人はこういう人間」って一言でタイプ分けするのは、人を攻略したようでその人の上を行ったような気になるし、一見わかりやすいように見えるけど、ほんとうのところは全然なんにも分かっていないし、失礼だし、かけらも理解できていないよね。

定義付けが好きな人間は、一生自分のことを俺は○○のタイプだから~とか勝手に自分語りしていてください。

そして定義付という名の幻想とともに、一生を終えて下さい。

ハック

明日から入院ですごい不安になってる。たった一週間だし手術したらすぐ終わるんだけど、ものっすごい不安。不安だけど、他人に「不安なんだよね・・・」みたいなことが言えない。そうやって他人に頼るのが死ぬほど苦手だし、あまりしたことがない。入院について聞かれたら適当に、全然大丈夫だよ~と言った。ほとんどの友達が「本当に大丈夫??頑張ってね!」というような返しをくれて、ありがと、と返した。だけど、大人の人たちは、恐ろしく勘がよくてバイト先の人に入院するのでお休みをいただきますというような旨のことを伝えたら、その人が涙目になりながら自分の手術の話をしてくれたので私も泣きそうになってしまった。大人の人は生きている年数が長いからなのか、どういうときにどう対応したらいいのかをはっきり分かっていて、たまに凄くうらやましくなる。私はといえば、二十歳になって大人ぶっているだけなので、格好つけて不安から逃れるために二晩続けてお相撲の録画を見ながら飲酒をしました。梅酒です。ださいことに一杯飲んだらもう無理というくらい顔が赤くなってふらふらするので、二晩とも一杯だけ。本当は日本酒が呑めたら力士みたいでめちゃめちゃ格好いいなと思うんだけど、呑んだら口の中で理科の実験をしているような気持ちになるので一口が限界です。でもなんとかして、お酒の練習をしていつか新潟にあるという「誉富士」という日本酒を飲んでみたい。

どうせなら、と思ってずっと気になっていたMark Twainのハックルベリーフィンの冒険を入院中に原文で読んでみることにしました。わざわざ古くて重厚な感じのを探し出して。緋色の素敵な表紙の巻頭に日本語の注釈が入っている大正時代に刊行されたものを手に入れました。自称読書好きのように、Twitterで「読了。」っつって写メを添付してツイートしたいくらい格好いい。私はMark Twainの最初の注意書きが凄く粋でお洒落で死ぬほど好き。

『この物語を書いた動機を見出そうとする者は起訴する。この物語のなかに教訓を見出そうとする者は追放する。この物語の構想を見出そうとする者は銃殺する。』